紅の湖



『紅の湖(前編)』


 生い茂った緑の森がある山の中を大人のような体型と精神を持つ中学生の中村徹は行く当ても無く歩いていた――と言うより、遭難していた。迷い始めたのは明け方だったが、とっくに日は昇りきり、時計の針は一時を示していた。何時間も彷徨っているうちに、道すら失った。そのため、舗装されていない雑草だらけの山の中を掻き分け、無理やり進んでいる状況になった。
 今現在は水曜日で、祝日ではない。家族や友達と仲良く登山をする。そんな客はいない。仮にいたとしても、徹の元へは来ないだろう。
 家族ですら徹がこの山に来ていることは知らない。
「何なんだよ!」
 一人に来て、勝手に迷ったのだ。誰にも文句を言えないことは分かっているが、怒りを何処かへぶつけたかった。だから山に向かって文句を言った。
 そもそもここに来た理由すら徹は覚えていない。
「……切り替えの為だったな」
 たった今、思い出し、呟いた。ここに来た理由は、今まで溜まったストレスを開放させるためで、まさか、逆にストレスを溜めることになるとは思いもよらなかった。
 最近、無性に腹が立つ事が多かった。それもこれも、全て、徹の持つ不思議な体質のせいだった。

 徹に触れたものにはなにかが起きる――。

大小は人によって違うものの、大体の場合が悪い事だった。徹に触れた者がこけたり、突然倒れたり、奇声に近い悲鳴を上げたり、何かにとりつかれたように口調が変わったりというものだった。
 三年に進学し、それを機に転校をして三ヶ月。ばれないように努力をしていたのだが、三ヶ月間も体質がばれなかったことが不思議で仕方なく、自分でも感心してしまう。だが、ばれてしまっては意味が無い。いつの間にかあだ名は、呪い男。何度転校を繰り返しても、何も変わらない始末。自分が気味悪がられ、軽蔑される。親は、教育を受けさせる義務を放棄しようとした。
 そして、親からも半ば見捨てられた徹の周りには、人が全く居なくなっていた。
 体質のことが分かった後、いつの間にか両親ですら徹に自ら近づこうとはしなくなっていた。
 自分を見つめる目は、全て軽蔑。弱冠十五歳で徹は、天涯孤独に近い身におかれていた。いや、回り全てが敵であるから、四面楚歌と言った方があっているのかも知れない。
 徹は人生が最悪になった日の事をはっきりと覚えている。覚えているからこそ、山に登るのだった。逃げるために――。
 徹は辺りの木々に目を向ける。その一本一本が見た事あるようにも感じ、見た事無いようにも感じる。
 このような状況を予想して、いつもなら方位磁針を持ってきているが、今日はなぜか忘れていた。
 誰にも見つからないように、かなりの田舎の森に来た。
 太陽と時計を使って方角を調べる方法があると聞いた事があった。その方法も分からない。もし分かっていたら、既にこの森から抜けれているのだろうし、その前に遭難もしないはずだった。
 突然大きな音が聞こえた。水の中に石のような物が落ちる音――
 音量は以外と大きく、近くで音がしたことを感じた徹は、耳を澄まし音を感じ取る事だけに集中した。
 だが、聞こえるのは葉のすれる音、鳥のせせらぎ、風の音。先ほどのような、水の音など微塵も聞こえない。聞こえないもの音に耳を澄まし、場所を特定する事などは出来ない。徹は半ば諦め、自らの勘信じて、足を進めた。
 歩いている最中、耳元で虫が羽を震わしている耳障りな音が聞こえてきた。
耳元の空を手で払う。音は聞こえなくなったが、耳の調子がおかしい気がする。
 徹は耳を二、三度払った。
 その時、再び水の中に石のような物が落ちる音が聞こえた――
 それも先程より、大きな音で……。
 徹は立ち止まり、辺りに水が無いかくまなく探すが、木々の隙間からは水どころか、葉の緑と木の幹と地の茶以外の色が見つからない。
「絶対何処かにあるはずだ」と呟いて、再び目を凝らす。
 だが、何も見つけれない。徹は体を一回転させ辺りを見渡した。木漏れ日が目に入りまぶしく感じただけだった。
 先から何度も聞こえてくる、水の音。それは近くに水があることを示している筈なのだが、肝心の水は全く見当たらない。
 徹は数歩進むたびに辺りを見渡すという行為を繰り返していた。そして、二十回ほど繰り返した後、緑と茶の中に微かな水の色を見つけた。
 すぐさま徹は茂った草を掻き分け、全力で駆け寄る。
 空を見上げれば描かれているその色。日常を思い返せば何度も見ているその色。だが、ここに見つけたその色は特別で、今の徹にとっては金、銀、財宝に匹敵するぐらいの価値のあるものに思えていた。
 草木を掻き分け、閑散とした木々の間にある泉の近くにひざまずき、水を手で掬い、それを口元へ持っていく。砂漠に降る雨のように口の中をわずかに濡らした
 けれども、砂漠に雨が降ろうとそれはすぐに乾燥してしまう。口の乾きを完全に潤す為に、何度も何度も、水を口に運び込む。
 乾燥した口にオアシスが出来ると、泉を一望した。畳二畳程しかないその小さな泉の奥には大木が並んでいるが、その向こう側にも何かがありそうだった。何の根拠も無いが、何となくそんな気がした。少しかがみ、大木の間を潜り抜け、その先を眺めた。木々の先にあった、湖を見た瞬間、徹は驚愕した――
 木々の間にポッカ入りと開いた空間に広がったサッカーコート程の湖を見たとしても、別に驚く事は何も無い。だが、その湖は違った。
 問題は色にあった。普通湖の色は? と聞かれると誰もが青、又は青に近い色、空の色などと答えるだろう。が、その湖の色は、青とは程遠い――正反対の紅に染まっていた。
「嘘……だろ……」
 今までこのような光景を見た事が無かった徹は、驚きの余りに言葉に詰まった。海、川、そして湖。それらは、普通は青いもの。その色が違う事に、徹の頭はついて行けていなかった。恐る恐る湖に近づく。ひざをつき、湖の中に手をいれる。指先から手、そして体へと徐々に湖の冷感が伝わってくる。
 色が違う以外はごく普通の水のようで、魚も泳いでいる。
 不思議な感じで、何処か妖しい魅力をこの湖は持っている。徹は紅に染まる湖を見て、暫らくは頭が働かず感情が麻痺していた。だが、頭がその事実に対応していくと、この湖の魅力に気づいたのだった。
「美しい。この光景は、今まで見てきた何よりも美しい」
 徹はこの湖の光景を年寄りじみた言葉で絶賛した。膝立ちの状態で湖を眺めたまま、徹は微動だにしなくなっていた。この湖を見つめていると、今まであった色々な事を忘れる事が出来た。
 徹の頭から、この湖が美しいと思う事以外の全ての考えが消えていった。
紅に染まる湖を見つめ始めて時計の針が半分ほど回った頃、突然、湖の色が空と同じ色になった。そして、徹は後ろに引っ張られた。突然の出来事で、徹は抵抗する暇も無く、後ろへ倒れこむ。背中に激痛が走ると同時に何者かが腹の上に乗ってきた。胸が苦しくなりら息が出来ないで喘いだ。
 徹は顔を確認する。伸ばしっぱなしのひげと髪。四十台前後の男の顔は黒く焼けており、目だけが異様に白く感じた。その目は怒りに満ちていた。
「貴様もか! 貴様もこの湖を俺から奪うのか!」
 低いうなり声で男は叫んだ後に、手を振り上げた。その手には金槌が握られていた。
 徹はようやく、今おかれている状況が理解できた。徹は今、訳の分からない理由で、この男に殺されそうになっているのだった。
 男の手と共に金槌が勢い良く振り下ろされる。徹は強く目を閉じた。
 徹は忘れていた。呪いを――。 徹は強く綴じた瞼の先の闇を見つめている中で、うめき声を聞いた。目を開くと男が頭を抑えて激痛に見舞われているようだった。
 何が起こったのか良く分からなかったが、必死で男の下から抜け出した。
 徹は息を深く吸い込み、男の見つめる。今になってようやく男の顔をじっくり見る事が出来た。顔全体にある皺の数が今までの苦労を無言ながら語っていた。男の頭上から血が流れてきて、皺の溝を赤く染めた。
 男の持っていた金槌が、男の握っている柄の部分と微かに地面に鉄の部分に分かれていた。徹の命は、紙一重で助かった。皮肉にも徹の命を助けたのが、毛嫌いしていた徹の体質だった。
 男は頭を抑えるのを止め、今にも目玉が飛び出しそうなほど目をかっ開き、真っ直ぐと徹を見据えていた。
「貴様……よくも」
 男は呟くと、懐から何か黒い物体を取り出した。徹はそれを見つめる。それが何なのか知っている。だが取り出されたものが拳銃だと気づくのに、数秒の時間を要した。気づいたときには既に、銃口は徹に向けられていた。
「ち、ちょっと待て、ください。話を聞かせてください。なぜお、僕が殺されなければならないのか……」
 焦りで舌が巧く回らないのと、このような状況でも敬語を使おうという妙な心遣いで、徹の言った言葉は訳の分からないものになっていた。
 徹の言葉で男の顔はいっそう険しくなった。刻まれていた皺は深さを増し、いかがわしく見つめていた。
「白々しい。貴様がこの湖を俺から奪おうとしていることは百も承知だ! 奴らも考えたな。若い奴を使えば俺が油断するとでも思ったらしい。だが、違ったな」
 男は誰にでも言う無く一人で語った。そして、一人でに笑い出した。だが、男の言葉で、段々と話が徹にも見えてきた。
 ――この湖は奪われそうになっていて、俺をその奪おうとしている者達の手先だと勘違いしているようだ。
 それならなんとかすれば誤解が解ける。と思い、弁解の言葉を捜した。
「俺は、この湖を奪おうなんて考えていない。ただ、この湖を見ていただけだ」
 必死で熱意を込めて、徹は弁解する。言い終わった後も、じっと男の目だけを見ていた。徹の言葉が伝わったのか、男は銃口を降ろした。安堵から、徹はふーっと息を漏らした。
 だが、男は拳銃の安全装置を外して、徹に向けてきた。安全装置が外された事で、一歩間違えれば死……一寸先は闇となった。
 徹の心臓は、鼓動を早め、悲鳴を上げていた。「言い訳は奴らの得意な事だからな。そんな事に騙させるものか」
 銃口を徹に向けたまま、男は徹に近づいていく。文字通り徹の目と鼻の先に銃口が突きつけ、銃を向けたまま徹の後ろに、回りこんだ。
「奥に屋敷が見えるだろう?」
 徹が黙っていると男は声を荒げて「見えるだろ!」と怒鳴った。拳銃が後ろにある状況では逆らえるはずが無い。徹は「は、はい」と返事をした。
「そこに向かって歩いて行け!」
 徹は背中を拳銃で押され、歩き出した。男が言っていた屋敷というのは、ここから、結構先にある、ベージュの壁に赤い屋根のついている、洋風の屋敷の事だった。
「バラバラ……少し……変だからな……」
 男の呟き声が断片的に聞こえたが、何を言いたいのかは分からなかった。その事よりも、何とか助かる方法を考える事が、徹にとっては優先だった。
 ――突然相手に蹴りかかり、相手の持っている拳銃を取り上げる。これしかいない。……でも、こんな事巧くいくのか? 映画でもないんだし……
 自分が考えた事が余計不安を募っていく。どうしようもなく、今にも不安に潰されそうになってきた。
 徹が、空を見上げれば、あれほど青かった空も黒く染まっていき、太陽は徹を見捨てていた。気がついたときには自然からも逃げられていた。
 不安を少しでも減らすために、ポジティブに考えようをした。
 あの屋敷に言ったら、殺されるのではなくて、一緒に食事をしましょうと言われる。いつも一人で暇だったから遊ぼう。など、客人として扱われるのではないかと、考えたが、それは違うと分かりきっていた。客人に拳銃を向ける人など、いるはずが無い。
 徹の思考の整理が間に合わないうちに、屋敷の前まで着いてしまった。
 結局徹は、何の解決策を見つけないまま、ここまで来てしまっていた。
 着いたので徹が立ち止まろうとすると、背中を蹴られた。
「まだだ、向こうの倉庫の前まで進め」
 徹が歩みだしの右足が芝生を叩いた刹那――徹は背中に重力を感じた。そのまま徹は前に押し出されて、後ろを振り向いた。
 男が下に転がっていた木の蔓に引っ掛かってこけそうになっていた。そして、こけた。男が地面とぶつかった拍子にに持っていた拳銃は地面を滑り、徹の前に来た。徹はすぐさま掴み、震える手で銃口を男に向けた。
「殺したいなら、殺せ」
 すぐに男は生きる事を諦めたように呟いた。
 徹は自己防衛の為に拳銃を構えたまま、首をゆっくりと左右に大きく振った。
「まず、あんたは勘違いしている。俺はあんたが思っている奴等とは違う。俺はあんたを殺す気は無いし、この湖をあんたから奪おうって気も無い。帰る道を教えてくれるのならすぐにでも帰るつもりだ。だが、その前に教えてくれ。あんたは何で、罪を犯してまでこの湖を守るんだ?」
 男は無言のまま、地面を見つめていた。数十秒の間を空けて、男は「座って良いか?」と尋ねてきた。徹は座るように促す。少しの安堵から拳銃を一瞬降ろしてしまったが、再び男に銃を向けた。
男はため息をつき、落胆したようだった。徹が、諦めない事を悟ったのだろう。
「しかたがない……話す――」
 深呼吸の後、男はゆっくりと話を始めた。




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