紅の湖



『紅の湖(後編)』


 ――五年ほど前だった。俺にはまだ、恋人がいた。ある日、偶然この湖を見つけた。何の変哲も無い普通の湖だったが、この湖になぜか、俺達は引き付けられた。それで、二ヶ月に一回ほどは、ここに来ていた。
 ただ、する事が無く、呆然とこの湖を眺めるだけ。それだけで日々のストレスが癒された気がして、何度も何度もここに足を運んだ。
 そして、結婚を一ヵ月後に控えたある日、俺が仕事をしている時に電話が掛かってきた。その電話は最悪な内容だった。彼女が事故に遭い、危篤状態だと知らされた。
 会社を早退し、すぐさま病院へ駆けつけた。医者からはあと三時間の命だと言われた。
 だが余命三時間となった彼女は、泣きじゃくる俺を見て、笑う。
 そして――
「あの湖に行きたい」と彼女は消えかかった、か細い声で俺に言ってきた。
 それはいけないことだと分かってても、最後に彼女の願望を叶えさせたかった。俺は医者のいない隙を狙って、病院から彼女を連れ出し、車を走らせた。二時間半車を走らせる事で湖には着いた。安静状態で三時間しかもたないと言われた彼女の命は、いつ消えてもおかしくない状態だったが、彼女はまだ生きていた。そして、湖の湖面に映る夕日が、湖を紅く染めた時、彼女は「ありがとう……」と呟いて死んでいった。
 彼女の美しい死体を抱え、俺は病院に帰り、次の日に彼女の葬儀が行われた。
 それから数日たった後、俺は仕事場に戻ったが、何も身が入らなかった。一日中虚ろな状態っと過ごす事が多くなり、仕事が終わった後は湖に向かう生活を毎日続けた。
 ある日、二人の男の話を聞いてしまった。あの湖一体がダムに沈められるという事を……そんなことはさせない。と、思った時には、車の中にあったゴルフクラブで二人の男を既に撲殺していた。
 二人の男の死体をどうするか考えて、とりあえず湖に捨てる事にした。別に二人の男がいなくなったところで、遭難事件となるだけだろうと考えたからだ。
すると、その湖には不思議なことがあることを知った。
 この湖の中に二人の死体が入った直後、湖は紅に染まった。染まった時間は五分も無かった。だが、思い出した。彼女が死んだあの日を。そして思った。彼女のために、俺はこの湖を死んでも守ると。彼女との思い出を崩させはしないと。
 この不思議な湖を貴様も俺から奪おうとしているのだろう?
 男は、話し終えると顔を上げ、徹の目を見ていた。先ほどまでの泳いでいた目とは大違いで、ただ一点を睨んでいた。
 徹は男の目など無視し、鼻で笑った。
「何がおかしい!」
 男の睨みは更に凄みを増したが、徹はそんなことでひるむ事は無かった。何事も無かったように口を開いた。
「俺はただ……ただ、家や学校から逃げたくてここに来ただけだ。そして、たまたまこの湖を見かけただけだ。あんたは、もしかしたら……いや、確実に無関係者を殺してる」
「ああ……そうだろうな。
 死ぬ前に一つ聞きたい。なぜお前は、家や学校から逃げたくなった?
 俺は思う。悪い事をした奴に制裁は下らずに、普通に生きていただけの奴らに、不幸が訪れる。何もかも馬鹿らしくないか?」
「俺は一言もあんたを殺すとは言っていない。先だって、俺は帰るって言っただろう?」
 男は考えに耽るように、目が上を向き、こくりと頷いた。
「話を聞かせてくれ。もしかしたら、俺と似たようなものなのかも知れない。同じ考えを持っているかも知れない」
 男の顔から目をそむけ、徹は考え込んだ。この男は彼女との大切な思い出を語ってくれた。自分も説明するのが普通ではないか?
 徹は話を始めようとした。


 ――俺が小学生の頃の自然教室で海の近くに行った。俺の学校は、夏休みの期間中に自然教室があったため、海でも泳ぐ事ができ、俺らは泳いでいた。
 泳いでいる時、ことは起きた。
 突然、腹の辺りに激痛が走った。下半身を見て俺は驚愕した。鮫が俺の腹を噛んで、下半身は鮫の口の中に入っていた。その光景を見て俺は叫んだ。叫んだ事と、そこに迷い込んだ鮫が、他にはいなかったことが幸いで、すぐに俺は助けられて、下半身と、上半身が分かれることは無かった。
 だが、それでも危険な状態だったらしい。俺は意識を完全になくしていた。
 意識がない中、俺は白い中で話しかけられていた。見えない誰かに……。
「生きたいか?」
 その声は尋ねてくる。その声に、当たり前のことを答える。「生きたい」と……
「ならば、生き帰るためなら、その代償を払うか?」
「俺は死んだのか?」
 生き返るという言葉が頭の中で繰り返され、その事に気づいた。
「いいや、違う。もしもの話だ」
「代償を払う」
 生きていれば、その代償となったものも何とかなるだろう。そんな気持ちで返答した。「わかった」と言う声を最後に、その白い空間は消えていった。
 気がついた時には、ベッドの上で寝ていた。母親が、その隣で泣いていた。何があったのか尋ねると、泣きながらも答えてくれた。
「なにも覚えてないの? 鮫に噛まれた。危険な状態だった。そして、目覚める前の二分間心臓が止まっていたの。だから、死んだと思ったのよ」
 再び母親は、泣き叫んだ。大粒の涙で、徹のベッドの横の方は、かなり湿っていくのが見えた。
 一週間近くは母親が一日中看病してくれていた。その後の入院期間はたまに来る程度になった。最初の一ヶ月は平和だった。何も起こらず、病院のベッドの上でなにもせずに過ごす。その生活は楽だったと覚えている。
 だが、その後、次々と不可解なことが起こりだした。
 俺を担当とした看護師に奇妙なことが起こってきた。廊下で滑って転んだり、階段から転げ落ちたり、一番酷いのは、医者が手術ミスを起こし、メスで切られた看護婦が入院するほどの大怪我をしたらしい。その全員が、俺を担当したために、不幸な事が起きた。
 親しかった看護師や、気軽に話しかけてきた入院患者たちは、自ら、俺の止まっている部屋に近づこうとはしなくなっていた。俺は病院内で完全に孤立した。
 退院時期が迫るにつれて、病院内の全ての人は安心したような顔をしていた。問題児が消える事で喜んだのだろう。
 俺自身も、軽蔑される事がなくなると喜んでいたが、結果は違った。家族も恐れ、家で孤立した。学校でも孤立した。俺の居場所は無くなった。
 段々と自分のことが分かってきだして、俺に触れた人は何か――不幸が起きるということが分かってきた。だから、転校して、頻繁に触れられないように努力していたが結局は、孤立する。
 そんな事を繰り返した。
 それは、今の学校でもそうだった。だから、俺は、学校をサボり、気分転換にここまで来てこの湖を見つけたという訳だ。
 あの事故から俺の人生は狂った――。
 徹が話し終えた後の男の目からは尊敬の眼差しのようなものを感じたのだが、気のせいだったろうと、徹は思った。いや、思いたかった。孤立する事になる体質を欲しがる人がいるというのだろうか?
 だが思い直した。この男は人を殺したがってた。今のこの男は絶対に徹の体質を欲しがってるだろう。
「つまり、俺は、お前のその力のせいで、お前を殺し損ねて、今殺されそうになっているのか?」
「だから、殺さないと何度も言っているだろ?」
「ああ……。結局、俺とお前は似た者同士だったわけだな」
 徹はこれ以上ないくらいのしかめっ面をした。この男と似た者同士と言う事に嫌悪感を覚えた。
「悪かった、撃つなよ……。でも似ているだろ? 二人ともこの世界では孤立しているって事が……」
 男は徹の機嫌が悪くなったことを察し、手に持った拳銃で撃ってくるとでも思ったのだろうか、少し焦りを感じているように言葉を放った。が、最初から徹は拳銃を撃つ気は無かった。
「確かにな……」
 深いため息と共に、この世には自分の存在して良い場所が無いのでは? と思い始めた。天涯孤独。四面楚歌。そんな四字熟語、故事成語がよく合う。そうなってしまった以上、自分はこの世にいても居なくても良い人間。周りからすれば、居ないで欲しい人間。もう、生きる意味が見当たらない。それほどまでに思い悩んでいた……。
 願わくば、数分前に戻り、あの場面で拳銃に撃たれ、死んでおきたかった。そして、この湖の一部となって、紅く輝いて見せる事で最期を迎えたかった。華やかな最期を……。
「今何を考えていたのか当てて見せようか?」
 徹が物思いに耽っていると、男がニヤついて話しかけてきた。
「今、自分は生きていても意味が無いと考えてただろ?」
 徹は男を無視しようと考えていたが、確信をつかれ、眉を吊り上げた。
「なぜかって? そりゃお前がそんな顔してしてたからな……。で、お前は孤独な訳だろ? その状況を変えたくないか? 前のように暮らしたくないのか?」
 男は徹に対して幾多の疑問をぶつけてくる。
「……元の暮らしに戻りたい」
 徹が言うと、ニヤついていた男は更に口元を口が裂けるのでは? と思われるほど吊り上げ、満面の恐ろしい笑みを浮かべた。
「それを出来る方法があるかもしれない。まず、俺を殺さないと約束してくれ。いいか?」
 徹は「ああ」と言い、先を続けさせた。
「ここに来て暫らくした時に夢を見た。その夢で、湖の主とか言うのが現れた。そして、その主は言った。この湖の色が完全に紅に染まった時に願いを二つ叶えてやろう。と……。嘘かほんとかはわからない。だが、信じてみたい。恋人を蘇らせたい。だから、その願いの一つをお前にやるから協力してくれ!」
 徹は俯き考えた。しっかりと銃口を男に向けたまま――。
 暫らくしてようやく口を開く。
「方法は? この湖を完全に紅にする方法は分かってるのか?」
「ああ、この湖を紅に染めていく――つまり死体をここに放り込むだけだ。あと何体かは知らない。後一体で成るかもしれないし、後千体かも知れない。だから、俺らの為に、生贄になる人を連れて来てくれ。殺す役、酷い役は全て俺がするから!」
 もう、この男は藁にすがる思いなのだろう。死ねば恋人に会えるが、死にたくない気持ちと、恋人に会いたい気持ち。二つが激しくぶつかっているのだろう。
 疑心を持ち徹は男を眺めていた。
 だが、男の言っている事が嘘だと言える要素が全く無い。そもそも、死体が湖に投げ込まれただけで、紅に染まる事自体からおかしい。
 男は、嘘偽りは全く無い、真実のみを言っているのかもしれない。
 そう思った徹は、希望が見えてきた。再びこの世界で生きる希望が。
「生贄はどんな奴でもいいのか?」
「ああ。死体なら紅に染まると思う。だから、早く生贄を見つけてきてくれ!」
 徹と男の立場が逆転した時以来なぜか男は焦っていた。それに対して、徹は冷静に答える。
「焦ることは無い。もう、一人はいる」
「え!? どこだ?」
 男は辺りをしきりに見渡すが、人影などを見ることは出来るはずがない。この湖の周りには、徹と男の二人の影以外は何も無い。
「ここだよ」
 徹は銃口をしっかりと男に向けた。男の顔はみるみる蒼白に染まりゆき、喚き声をあげた。だが、何事もなかったかのように徹は、思い引き金を引く。始めて撃った拳銃は思った以上に反動が来て、銃口がそれた。男の胸を狙ったはずの銃弾は男の額に食い込んでいた。男は音を立て地面に倒れる。最期の力を振り絞り「く……くる……み……」と彼女の名前らしき言葉を何とか口にした。
「あと一人でも良いなら、あんたを殺して入れたらすぐだろ。死んでも誰も心配しないあんたを殺したところで騒ぎにはならないだろうからな……」
 徹は言い終えると徹は銃口をしっかりと両手で構え男に向けた。
 男にはもうほとんど力は残ってないはずだが、その全力をかけて張ったしたのだろう。
「今までのことは無意味だったのか」と言う断末魔の叫び声が終わると同時に、徹は引き金を引いた。
 銃弾が飛び出し、男の胸を貫き息の根を止めた。
「無意味じゃなかったさ。俺が役に立ててやる」
 銃口から出ていた硝煙が薄れた頃、徹は呟き、男の死体をかかえた。そのまま空色の湖に放り込んだ。水しぶきが上がり、男の死体は沈んでいった。
 次第に湖は紅くなった。そう、心を囚われたあの湖の色になったのだった。
 期待を込めて、湖を眺める。一度目見たときは、この湖が美しいという考え以外が消えていたが、二度目である今、この湖が永遠に紅に染まる事を祈っている。
 日は既に傾き始め、時計が一時間過ぎた事を伝えた頃、湖の色は空色に戻った。
「駄目だったのか……」
期待以上の落胆があった。
 だが、まだスタート地点だ。あの男よりはましだ。とホジティブに考えると、気持ちが楽になった気がしていた。
 そのまま、次の生贄の対象とする人物をどうするか考えていた。
 突然くしゃみが聞こえる。 そのくしゃみは、音が殆んど鳴らないようにに我慢されていた。だが、興奮と脳内麻薬によって覚醒されている徹の聴覚は、その音を聞き取った。
 振り向くと、小学生位の少年が、木々の間から、こちらを怯えながら見ていた。顔には、恐怖の文字が浮かび上がり、真っ青になっている。
 徹はとっさに拳銃を懐に隠した。
「どうしたの?」
 愛想の良い笑みを浮かべ、徹は少年に近づいた。少年は首を小刻みに左右に振っていた。構わず徹は一歩一歩近づいて行く。
 少年が逃げる動作として背中を見せると同時に、懐から拳銃を取り出し、狙いを定め、引き金を引いた。
あれほど重かった引き金は冷めた鉄の塊に貫かれ、少年は倒れていく。
徹は人の命を奪う事に足を浸していった。無残な小学生の死体を湖に投げ入れる。湖は紅く染まる。
 湖が永遠に紅染まったのかどうか確認するのに時間が掛かる事を学んだ徹は、屋敷の中へ入っていった。
 思い返せば二回も飯を抜いていた。家の中は、質素なもので、必要以外の物は置いていなかった。当然ここまで電気が通っている筈も無く、電化製品はおいていない。冷蔵庫なんてものは無く、食料といえるものは、保存料の使ってあるパンが主だった。
 徹はパンの袋をあけ、パンを口に頬張った。
 俺は、この最悪な人生をやり直せるんだ! あの湖の願いが叶うまで、人を殺し続けてやる!
口の中のパンを飲み込み、徹は勝ち誇ったように言った。
 人が人を殺す事は、いけないこと。などと言ったところで、人は極限状態まで陥れば、それは仕方の無い事になる。悪い事に対し理由を付けて、出来るだけ遠ざけようとする。
 そして、徹もまたそちら側へと堕ちていった。
 だが、徹がこの場所から抜け出せない為、今ある食料が切れたときに餓死という運命をたどる可能性が高い事を徹はまだ、気づいていない。
 徹が餓死するのが先か、街に降りて行く術を見つけるのが先か、湖が紅に染まり願いが叶うのが先かの非常にハイリスクなギャンブルだという事を……。そして最大の問題にも気づかなかった……。殺人と言う人道にそれた行為をした徹が、再び平凡な生活は送れないであろうことを。
 それでも徹は、高らかに笑い、湖の色を確認するために、屋敷から出て行った。



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