『雨の街

 人が少なくなった真夜中。二十代程の男は闇に包まれた通りを俯き、ただ呆然と歩いていた。
 空には厚い雲が覆いかぶさり、滝に負けない勢いで豪雨を降らせている。そんな雨にも関わらず男は傘も持たずにいた。
 雨は街灯が少なくただでさえ暗いその通りを、より一層暗くしていた。
 降りしきる雨は男の全身を滑り、地面に滴るばかりである。男の目は深い哀しみに満ちていたが、その目から流れる水は涙なのか雨なのかは男自身しか知るよしもない。
 男のその日の日中は楽しいはず――いや、楽しかった。
 恋人と付き合い始めて二年目の今日、旅行に男とその恋人はこの街に来た。
 だが、男は、ここに来た事が間違いだった。ここに来なければ悲劇が無かったのだろう。と、後悔の念ばかり頭に過ぎる。その後悔と脳が、かつては一つの物だったように絡まってしつこく纏わり着く。
 男は俯いたままふと足を止めた。地面に目を落としたまま歩いていたが、周りの景色が明るくなった気がしたのだった。
 ゆっくりと顔を上げると、先までは無かったような、派手なネオン看板が輝いている。 男は知らず知らずのうちに大通りまで出ていた。
 行きかう車の雑音と雨の降りしきる音が互いに相殺しあい、無音であるかのような錯覚に陥る。
 目前には、多数の店が立ち並んでおり、通りすぎる人々を静かに誘っている。
 今まで――いや、本日あった出来事の前までの男なら何処かの店で時間を潰し、数時間後には恋人に謝っていたであろう。
 しかし、今となってはそれも出来ない――。
 店に入り雨宿りするという考えすら起らず、その場に立ち尽くしていた。
 それよりも、その場で雨に濡れていたいと考えていた。
 雨が全てを拭ってくれる。
 男はそうすら思ってしまっていた。髪につけていた整髪剤も、口から出るうめき声も、瞳から流れる涙も、今までの罪も――全て。
 男は気まぐれに足を進めた。数歩足を進めて再び立ち止まった。立ち止まった場所は人の行き来が激しかった。男の目前を抜けていく人々は皆、ひどく不幸に見える男を一瞥して過ぎて行く。中には男に哀れんだ目を向けるものもいた。
 男の瞳は前を行きかう人の方に向いているが、その焦点は定まらず、ぼんやりと虚空を眺め、何度も同じことを考えていた。
――なぜ、喧嘩してしまったのだろうか? なぜ、旅行でここに来たのだろうか? なぜあの時――なぜ? なぜ――なぜ?という疑問詞が脳内で何度も響く。
 考えるたびに男の悲しみは増した。男の悲しみの表情が一層深まると殆んど同じに、雨の勢いも増し、ノイズのような音が耳に入ってくる。
 雨がどうなろうと関係なしに男は再び歩み出す。一歩足が地面に着くたびに、水が跳び、ズボンの裾に付着する。だが、今更そんな事は気に留めず、流浪の民のようにあても無く街を彷徨った。
「兄ちゃん暗い顔だね……良いものがあるよ」
 突如、声を掛けられた。理由は無いが何となく薬物の売人のように思えて、顔を向ける。声の主が手に持っていたそれは、本当に薬物のようだった。
 覚せい剤やその他薬物がどれだけ今の気持ちを和らげてくれるのか気になった。だが、これからは罪に近づく事はやめると誓った。
 あの部屋を出た時に――
 強引に違法薬物の売人を押しのけ、更に男は流浪した。ただひたすらに足を進めた。全く知らない街を。 後ろからは、売人の怒りや侮蔑が聞こえてくるが、男にはもうどうでもいいことだった。
 雨は次第に弱まってきた。
 完全に止む事は無かったが、雨音は小鳥のせせらぎのように聞いていて、気持ちが良いものになっていた。肌での感じ方も良かった。
 全ての罪が洗い流させたような感覚が男にはあった。
 罪――。と言う言葉が引き金となり、男は一度は忘れかけた事を再び思い出した。
 あの出来事は全て嘘であって欲しい。今までのことは全て夢で、目が覚めると笑い話になるか、忘れているかしていて欲しい。そう、ずっと悲願している。だが、いくら悲願しているとはいえ、男は全て分かっていた。これまでの事が、現実だという事が……。
 心の痛みは本物だった。夢なら覚めても良いほどの悲しみ。あの感触。全てが、現実(リアル)だった。
 胸に背負っている事が多く、何をして良いのか分からない……。
 再び男は闇の中を流浪した。
 男が部屋を飛び出して時点から、時計の針は三百六十度の回転を何度も繰り返した。
 雨は霧雨程度になり、雲の間からは微かな光が差し込み、光彩の天使の梯子を作っていた。
「帰るか……」
 男は天使の梯子を見上げ、満足したように呟いた。
 男は流浪の旅に自ら終止符を告げた。次に向かう目的地は決まっているのだが、今いる場所は全く知らない場所で行く方法がわからない。
 男は後ろを振り返る。今まで進んで来た道がそこに在るはずなのだが、そこを通った記憶がない。 前後左右のどこにも、男の知る道は無かった。男は、後ろのジーンズのポケットに手を突っ込むが、そこにあるべき財布は無い。
 財布を取る暇さえ無かった事を男は思い出す。
 男は散々悩んだ末に、最後の手段を使う事にした。
「すみません。ホテルにはどうやって行けば良いんですか?」
男は服のへその右の当たりの部分を手を組んで隠しながら、ランニングをしていた女性に尋ねた。その女性は親切に行き方を男に教えてくれ、「電車で行ったほうが良い」と男は言われた。 しかし財布が無い。
 男は「財布をホテルに忘れてしまって……」と俯く。
「ならここまで徒歩で!?」
「はい……」
 女性はここまで徒歩で来たことを驚いた。そして笑顔で電車代を男に渡した。
「ありがとうございます」
 男は女性に感謝の気持ちを伝え、駅に向かった。
閑散とした駅には人はいなかった。始発まではまだ時間がある。それは当たり前と言えば当たり前だった。
 深夜に歩き始め、まだ陽は上がらない。
 男は近くのベンチに腰を掛け、空を目で追った。
 今は大分気持ちが落ち着いてきて、現実を受け入れる準備が出来ていた。

 駅に滑り込んできた電車に乗り込み、ホテルに帰ってきた男は、自分に与えられた、七一五号室への扉の前に立っていた。
 脈がどんどん上がってくるのが男には分かった。額からは汗が夜の雨に負け無いほど溢れてくる。男は全ての雑念を取り払い、瞼を閉じ、深く呼吸をした。鼓動はまだ速いいものの少し落ち着いた。ドアノブに手を掛け、一気に扉を開いた。

 嘘であって欲しいと、悲願しながら――

 男はゆっくりと、閉じていた瞼を開いた。男の顔に再び悲しみが宿る。
 先の願いは虚しく宙に消え、目の前には、想像していた通りの光景が広がっていた。何度も夢であって欲しいと願っていた現実が……。
 男の足元には、女性が転がっていた。男の恋人である女性が――死んでいた……。
 恋人の瞳は虚ろで、意識など無い筈なのだが、目が合ってしまった。男は恋人の死体を睨み、恋人が死んだ経緯を思い出した。これで三度目だった。

 

 その夜、男と恋人は喧嘩をした。楽しい旅行だったはずが、男の軽薄な一言で豹変したのだった。恋人の友達のことで悩んでいるという話をしていた。
「直子、分かるよね?」
 恋人は不安そうに、男に尋ねる。男は、すぐに答える。
「茶髪で、ポニーテールをしているあの娘?」
「えっ……う、うん」
 恋人は一瞬驚きを見せ、首をかしげたが、構わず話を続けた。
「直子が、最近ストーカーで悩んでいるけど、どうしたら良いって訊いて来たんだけど、なんて言ったら良いかな? 私も一応答えるべきことはわかってるけど、友達に言うのと、警察署に相談しに来た人に言うのとは違うよね?」
 警官である恋人は、上目遣いで心配そうに男の顔を見つめていたが、男は、突然の頭痛に襲われ話を聞いていなかった――聞けなかった。
「ごめん、ちょっと頭が痛くて聞こえなかった……」
「大丈夫?」
 心配してくる恋人に、悩みが何なのか話すように促した。恋人は頷き、話す。
「直子が、最近ストーカーに悩んでるんだけど――」
「えっ!? あいつ俺にはそんな事、話してないぞ!?」
 言った後に男はひどく後悔した。それは、言っては成らない事――つまり禁句だった。
 この事実を恋人に、自分か直子が言った時、全ては崩れる。と男はしっかりと理解していた。
 だが、口が滑ってしまい、浮気をしていると、自白してしまったのだった。
 あの頭痛で判断が鈍ったのだと男は頭痛を恨んだ。しかし頭痛という形として存在しないものを恨んだところで何も変わりはしない。
 恋人がみるみるに紅潮していくのを見ているしかなかった。その像はまるで、血で染まったようだった。それに怒り……。
「直子とどういう関係なの?」
 低い声でゆっくりと口を開いた恋人に恐怖を抱く。
「悪い。ほんとにすまない」
 男は何度も謝罪をする。終いには土下座をした。男から見えない恋人は喘いでいたが、次第に息は戻っていた。
 何も言われないのか? と男は、目を上げた。恋人は怒り狂った顔で、料理人の友人に送ると買っていた、包丁を手に持っていた。
「もう何度目だと思ってるの!? 許さない!」
 恋人は窓が割れるのではないかと思われるほどの金切り声で叫び、包丁を構え男に向かって来ていた。男は巧く包丁を恋人の手から外した――が、包丁は次の瞬間には恋人の胸に刺さっていた。
 何が起こったのか理解できないまま、男は呆然と立ち尽くした。
 その中で頭の中に、幾つもの自分の声を聞いた。殺すつもりは無かった。死んで良かった。等の……。
 幾度の葛藤の末に男のとった行動は逃げる事だった。この現実から目を背けたい。現実逃避の為に、雨の中に飛び出したのだった。そのまま逃げただけだと、血が目立ってしまう。幸いジャケットを着ていたため、それを脱ぐだけで殆んど血は見えなくなった。
 そして、雨の降る街を放浪し、朝、街からここに戻ってきた。
 その間に、夢から覚めるように願って……

 

 だが、虚しくも、今、男の足元では、恋人が死んでいる。
 どうする事も出来ない。この状況は何も変わらない。
 男はへその横の位置にある血の染みの一点をただ見ていた。そして、現実に目を向け、次に進む事にした。先日、成ったばかりの司法官の職を失いたく無かった。遠い昔からの夢であり、その為に苦労して来たのだ。
 自分の持つ全頭脳を使い、死体の処理方法を考える。
 巧く隠し、完全犯罪を成り立たせる。
 一つの考えが浮かび、男はかつての恋人を見下ろす。
 一瞬睨まれた気がし、一歩後ずさんだ。だが、気のせいだと言い聞かして、前に進んだ。男は、かつての恋人の死体を抱え、バスルームに入って行き、数秒後出てきた。
 そして計画に必要な物を準備をしに、再び雨の降り出した街へ出て行った。

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